滝川簡易裁判所 昭和40年(ろ)56号 判決 1967年6月10日
被告人 宮崎篤 星野金四郎
主文
被告人両名に対しいずれも刑を免除する。
理由
(罪となるべき事実)
第一被告人宮崎篤関係
被告人は、昭和四〇年七月二二日午後八時二〇分頃砂川市西一条北二丁目紅屋デパート前路上に設置された砂川電報電話局長管理にかかる北幹第一七号電話柱に、みだりに日本共産党時局演説会告知びら一枚を貼付したものである。
第二被告人星野金四郎関係
被告人は、星野イワミ外一名と共謀して、昭和四〇年八月九日午後八時四〇分頃空知郡奈井江町字奈井江町一一九番地酒谷商店前路上に設置された砂川電報電話局長管理にかかる南幹第四号電話柱に、みだりに民族歌舞団わらび座公演の告知びら一枚を貼付したものである。
(証拠の標目)<省略>
(刑訴法三三五条二項の主張に対する判断)
一 弁護人は、軽犯罪法一条三三号の保護法益が電報電話局長の電話柱管理権(検察官は、論告において本件の場合の法益は、日本電信電話公社の電話柱所有権の現象型としての砂川電報電話局長の有する電話柱管理権であり、これは権利の利用の「自由」性に重点を置いて考えられた非財産的な権利であるとの見解を示した。)、電気通信共済会の電話柱広告の独占的取扱権、電話柱の美観または「社会生活の文化的向上」のいずれと解しても、本件びら貼り行為には何らの法益侵害がないと主張する。しかしながら、前記法文の法益は、形式的に考えるならば、「他人の物に手を触れるな」という人の日常生活における卑近な道徳律を法規範化したもので、すなわち社会生活の秩序または公序良俗ということになり、実体的に考えるならば、「物の在りのままの姿」、すなわち外観であると解するのが相当である。(同法文前段は静態の外観を、中段は動態の外観を保護し、後段にいたつて美醜の価値判断が加わると解することができよう。)そうすると、他人の物にびらを貼ること自体が法益を侵害することになるのであるから、弁護人の主張は理由がない。なお、法益はそれ自体刑罰法規の構成要件の内容をなすものではないから、検察官の見解が起訴事実に影響を及ぼすものでないことはいうまでもない。
二 弁護人は、びら貼り、びら配り等のびら活動の本質は憲法一九条、二一条、二八条で保障されている思想の自由、言論表現の自由、集会結社の自由、集団行動の自由という国民の基本的人権に基づく行動であるから、その重要性、必要性を比較考量するならば、びら貼り行為の法的価値は軽犯罪法のそれに優先すると主張する。しかしながら、びら活動が弁護人の挙示する基本的人権とくに表現の自由に入ることは当然としても、例えば営利的な広告びらのように経済的自由権に附従する性格のものもあり、いかなるびら活動もすべていわゆる精神的自由として格差なく尊重されなければならないとすることは相当でなく、また精神的自由たる基本的人権がいかに貴重であつても、行為の具体的態様についての考慮なくしてただ法益較量だけで軽微な法益を保護する法規に優先すると断ずることはできない。
三 弁護人は、本件びら貼り行為は、その目的が共産党の時局演説会とわらび座公演に関する告知であるから正当な政治活動、文化活動であると主張する。本件びら貼り行為が政治活動、文化活動の一環として、いい換えるならば活動の中心である行事に参加を呼びかける附随の誘引行為としてなされたことは証拠上も認めることができるが、いかに政治活動、文化活動の中心部分が正当であるからといつて、その一環をなす附随部分も当然に正当行為であるというわけのものではない。
弁護人は、本件びら貼り行為の動機はいわゆるマスコミが支配階級の道具と化し、国民を真実から遠ざけ盲目にしている現在、びら活動が「国民のマスコミ」として重要な役割を果しているので、唯一ともいうべき手段を行つたものであるから違法性はないと主張する。証拠上からは、いわゆるマスコミの実態が事実の正確な報道、放送について相当な制約を受けていること、そしてその傾向が近年強まりつつあることは認めることができるが、マスコミが支配階級の道具と化し、いまやびら活動が真実を国民に知らせる唯一ともいうべき手段となつたとの点はこれを認めることができない。したがつて、右の事実を前提として、違法または責任の阻却を主張することは理由がない。
弁護人は、本件びらの貼られた度数、形態は単に一枚のびらを貼つたにすぎないから違法性はないと主張する。しかしながら、被告人宮崎篤は二二、三枚、被告人星野金四郎は約九〇枚を本件びら貼りの前にすでに貼つたとそれぞれ不利益事実を承認しており、これを補強する証拠(被告人宮崎篤については右枚数は一四枚までは認められる。)もあるから、この点から本件びら貼りを被害法益の極めて軽微な零細な反法行為とすることはできない。
弁護人は、いうところの電柱は一般には国民に広告、びらを貼付する媒介物として利用されてきたもので、許可をうけなければならないという社会通念もないから、本件びら貼り行為は社会的に正当な行為であると主張する。しかしながら、右主張は結局断りなく電柱を利用することが社会通念上容認されているというに帰着し、弁護人独自の見解であるにすぎないから、これを採用できない。
四 弁護人は、本件びら貼り行為当時、違法性の意識がなく、主観的違法要素を欠くと主張する。(検察官は故意の本質は、犯罪構成事実の認識で、自然犯たると法定犯たるとを問わず、すべて違法の意識を必要としないとの意見を示しているが、これは故意が構成要件の外部的事実の認識を意味する限り然りというべく、責任の有無を決定するには、さらに責任の要素としての違法の意識またはその意識の可能性を要するとする立場を必ずしも排斥するものではない。)ところで、被告人宮崎篤の当公判廷における供述によれば、同被告人に違法の意識があつたと認めることはできないが、違法の意識の可能性があつたことを認めるに十分であり、また被告人星野金四郎の司法警察員に対する供述調書により同被告人には違法の意識があつたことが認められるから、弁護人の主張は理由がない。
(法令の適用)
被告人らの判示各所為はいずれも軽犯罪法一条三三号前段(なお、被告人星野金四郎の共謀の点につき刑法六〇条)に該当する。
ところで、近時、市街地にあつては電柱(電話柱を含む。)、街路樹あるいは家屋その他の工作物に本件びらに類似の演説会、講演会、音楽会、ダンスパーテー、スポーツ等の会合、催物類を掲示したびら、映画、演芸、商品の宣伝や政治的スローガンを内容とするポスター等種々雑多な広告物が貼られていることは公知の事実であり、本件びら貼り当時においても、砂川市、奈井江町にはこの種広告物が弁護人主張のように無数とは認められないが相当数貼られていたと推認でき、そのうちの若干のものが現に本件同様電話柱に許可をうけることなく貼られていたことも明らかである。しかも、前記地方では従来より無許可広告物が軽犯罪法違反で摘発された例がない実情の中で共産党員である被告人らのみが起訴されたのであるから、被告人、弁護人らは本件はびら貼り行為の取り締りに仮託して特定思想、特定政党の行動の弾圧を意図したものであると主張する。しかしながら、証拠上認められる本件が警察官が交通整理の職務に従事中たまたま発覚し現行犯として検挙されたものであること、本件びら告知の対象とされた演説会および公演が盛会に実施されたことを思い合わせると、いまだ本件検挙、起訴が軽犯罪法四条に違反し、同法の本来の目的を逸脱して政治活動、文化活動を不当に弾圧するという他の目的のために濫用されたものと断ずることはできないが、それにしても、本件起訴が被告人らに対し不公平な処分であるとの非難は免れない。そうすると、さきに認定の近年いわゆるマスコミにおける報道の自由が制約を強化されつつある実態と対比し、本件びらの内容には、とくに一定の主義、主張が表示されていたものではないとはいえ、基本的人権たる表現の自由しかも本来の精神的自由に関する案件であることに鑑み、あえて実刑に処する必要があるとはなし難い。もつとも、さきに判示のとおり軽犯罪法一条三三号は他人の物に手を触れるなという人の日常生活における卑近な道徳律を法規範化したものであるから、本来、法規以前の問題としてすべての国民が当然に守るべき規律であることを思えば、その行為に訴えることが、思想、表現の自由を守るための唯一の手段であるという異常緊急の状態の場合とか、極めて少量の枚数のはり札をはじめから行為者自身により清掃、原状回復がなされることを予定されて貼られた場合等でない限り、政治活動、文化活動をする者も、いかにその行為の目的が正当であろうとも、この規律を否定できないものであることに思いをいたさなければならない。このことにつき被告人らが誤解していると思われるふしがあるが、被告人らにはこれまで反法行為で処分された前科もないのであるから、こんごこの点について反省することを十分期待できると思料する。以上の情状により各被告人に対し軽犯罪法二条を適用して、その刑を免除することとする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 樫田寅雄)